身元不明の少女 Ⅲ Vol.1

身元不明の少女 Ⅲ Vol.1

大久保通りを北新宿一丁目の交差点で右に折れ、小滝橋通りに沿って新宿方面へ歩いた。東中野から中央線を使えば、僅か二駅で五分と経たぬ間に到着してしまうのだが、よっぽどの事が無い限り、例えば仕事絡みの待ち合わせで遅刻が出来ない場合などを除いて、源三は電車に乗る事は無かった。押し入れの上段をベットに見立てて寝ているぐらいだから、閉所恐怖症ではない。 むしろ狭い空間は落ち着くのだが、一旦、電車に閉じ込められてしまうと話しは別なのだ。吐くんじゃないか、吐いてしまったらどうしようと、根拠のない恐怖に襲われ、吐き気と供に心拍数が急激に上昇し、顔中に脂汗が吹き出してくる。 なるんじゃないかと、一瞬でも頭を過ると必ず症状は起こる。必要にかられて乗り込む時は、新聞や週刊誌を買い込んで、考えない様に意識を別に向けようと涙ぐましい努力をするが、活字に嘔吐を連想させる文字を見つけでもしたら、全ては徒労に終わってしまう。恐怖症である事は間違いないが、原因はさっぱり解からない。
きっかけは学生の頃、高田馬場の名画座で起こった。「時計仕掛けのオレンジ」がリバイバル公開され、前にも一度、観ていたのだがパンクス仲間がどうしても観たいと熱望したのを断り切れず付き合う羽目になった時、内容を知っている為か集中出来ないまま、急に心臓がドキドキしたらどうしようと脈絡のない不安が脳裏を掠めた。 呼吸が荒くなり、実際に心拍数が上昇し始めた。スクリ-ンに主人公のアレックスが大富豪の屋敷に押し入り、巨大チンポのオブジェを抱えて主人を追い掛け回している。嫌な予感が走った。この後、アレックスはオブジェを振り上げ主人を叩き潰すシ-ンがあり、破壊をイメ-ジ付けるイラストがカット・インされる。 観たくない、観てはいけないと拒絶した瞬間、スクリ-ン上にそのシ-ンが展開した。同時に、映写機が急停止し、スクリ-ンにイラストが固定される。クセノンランプの発する光熱が,いとも簡単にセルロイド製の35m/mフィルムを溶解していく。 スクリ-ン上に燃え溶けたフィルムが投影される。アメ色に沸騰した有機体が画面中央から外側に向かって気泡をグツグツ発生させて溶け落ちていく。己の意識と現実がシンクロしたと言ってもいい。強烈な拒否反応が胃の奥底から大量に湧き出し噴き上げた。 以来、映画館は拒絶の場となり、電車へと拡がっていった。そういった場所は年々増え続け、立ち入り禁止の閉鎖空間は多数存在する。

Vol.2へつづく