弥生 Vol.4

弥生 Vol.4

「弥生ちゃん、二階の部屋ね」

やっとの事で掛けた言葉に道子は辛うじて頷いた。清美は長い廊下を戻って玄関から二階に続く階段をゆっくりと登っていった。常夜灯のスイッチを入れるが反応しない。頭上に広がる真暗な二階フロア-は静まり返っていて、僅かなきしみですら響き渡って耳障りな感じがする。妙な圧迫感が襲い掛かって来た。暫くして目が慣れ、天窓から差し込んでくる外灯で大凡の輪郭が把握出来る様になった。踊り場まで到達すると、饐えた様な悪臭が嗅覚を直撃した。足元に異物感があり目を凝らして見ると、ドロドロになった液体が流れ出している。
そのまま登って行くと、液体は二階廊下のあっちこっちにべっとり付着していた。投げつけたか、吐き出した為だろう。液体は壁面にも激しく跳ね返っていた。悪臭の元は間違い無くこれらの液体だった。吐瀉物特有の刺激臭だ。液体を避けながら(勝手に入るな!入ったら殺す)と書きなぐったレポ-ト用紙の張り付けてあるドア前に立った。清美は暫くノックも出来ないまま、たたずんでいるしかなかった。ドアには隙間無くサイズの違う錆びた釘が打ち付けられていた。訪問者を拒絶しているのが一目で見て取れる。こういった惨状には慣れている清美も、知人の娘となると何時もと勝手が違っていた。冷静な観察眼は鈍り、正直、動揺している。客観的に成れないのだ。 半年前、訪問した時の素直で大人しかった弥生の姿が蘇る。これから生まれて来る弟を心底、楽しみにしていた。臨月を向かえた母親を労わり、食事などの手伝いもよくやっていた。どうしようかと、考えがまとまら無いまま、ドアノブに手を掛けた瞬間、物凄い勢いでドアが開け放たれた。反射的に身を躱すのが精一杯で、清美は体勢を崩し後方の壁面に激突した。部屋の中は真暗で入口に人影は無い。どうやってドアが開いたのか、思考が定まらなかった。室内の住人が確認出来ない為、想像力が先行してしまう。敢えて言うなら、圧縮された圧力に吹き飛ばされた、そんな感じだった。一歩も踏み出せないまま、神経は室内の奥深くに集中していた。微かに何かが動いた。闇の中からチキチキチキと金属とプラスチックが擦れ合う音が響いて来る。

「弥生ちゃん、居るんでしょ。清美よ」

思った以上に声が出ない。腹部に力が入らず、喉の奥で発した声がくぐもってしまう。職業柄の為か、相手に自分がビビッているのを悟られては成らないと、咄嗟に頭を過った。何故、知人の娘に対して。理由は無い。訓練された警察官は無意識に危険を察知しているのだ。ペンライトを取り出し、室内に向かって照らす。今度は威圧的に声を発した。

「弥生ちゃん!」

チキチキ音が止まった。弥生の呼吸音が手に取る様に解かる。押し殺しているが、それでも尚、荒々しい。ペンライトをその方に向けてみる。照射された光の中に弥生の姿が浮かび上がった。細かい部分までは観察できないが、今にも飛び掛かって来ようとしている体勢だけは、はっきり確認できる。振り上げた手に何かを持っている。チキチキ音が激しく往復した。カッターだ。反射的に清美は身構えた。

「弥生ちゃん、清美よ。話しに来たの。電気を付けなさい!」

威圧感から逃れる為には叫ぶしかなかった。清美の予測に反してそれ以上のインパクトが返って来た。一瞬、浮かび上がった弥生の顔は、清美の知っているものとは掛け離れていた。怒りがそのまま表情に転写されている。そう感じざるを得なかった。全身から臭気が漂っている。人間というより動物に近い。吐き出される息はこちらの戦意を消失させてしまうほどである。強い酸性の悪臭に、清美は後退せざるを得なかった。人間の目が光るのか?弥生の目は赤く光っているように見える。室内に飛び込もうとする意志は既になかった。弥生は清美の意志を察知しているのか。突然、ドアが閉められた。閉められたというより、強力なバキュームで吸引されたと言った方が正確かも知れない。低く唸るような声が洩れ聞こえてくる。知っている声とは違う。清美はその場を後にするしかなかった。

Vol.5へつづく